今日はちょっと真面目な話
今朝の朝日
この朝日が上がる少し前の空が白み始めたころ
西の空に びっくりするような 大きな真ん丸なお月様が
見間違いかと思うほど下の方にいました。
光を内に受け止めているような”沈んだ 藍色を含んだオレンジ色”が
見つめるのをはばかられるような…なんとなく魔力を感じるような雰囲気を漂わせていました。
マメ科の感じのお花は葛の花 お隣はホシアサガオ
堤防に咲くこの花たちは 毎年お彼岸の頃に顔を出してくれます。
少し前に 洪水の時の被害拡大を防ぐためという名目で、堤防の木がほぼ倒され
竹やぶや低木なんかもごっぞりと刈り取られてしまったのですが
「そんなことありましたか」という顔で、色んな植物は生き生きと堤防を緑で覆っています
もちろん、失ったものが戻るわけでもありませんが…ありのままを受け入れたうえで
それでも生きているものがそのままの形で表れてくるという
自然の営みは 本当に感動するし尊敬・畏敬の念が堪えません。
今日の風景には二度と会えないけれど
私が知ろうが知らなかろうが毎日の自然の営みは、この全宇宙で行われていて
その中でごくごく日常の私たちの生活があり、それぞれが『生きて』いるんだなぁと
なんとなく
『個と全』『ミクロコスモスとマクロコスモス』『バタフライエフェクト』
を、思っていました。
そうすると、いつも行きつくのがシュタイナーの『自由の哲学』の問い
この『自由の哲学』
シュタイナーの書籍はどれも奥が深すぎて一生かかって何度も読み、その時々で読み解きが違ってくる
”生涯の書”だということは間違いないのですが、その中でもこの自由の哲学は私の中で
ダントツに難しい
シュタイナー教育は『自由への教育』と言われているので
この「自由」という言葉にはそれはそれは多くの意味が含まれており
この世界の中でこの言葉を的確に表現できることは可能なのだろうか…と考えてしまう
自由の哲学のというの中…ほぼ初めに出てくるのが
意志する存在である人間は自分を自由だと見なすことができるのか、
それともそのような自由があるように思えるのは、自然の現象だけでなく
人間の意志をも支配している必然の糸を、人間が見落としているからなのか。
自由とは単なる幻想なのか・・・・・・・
この問いは認識する魂の目に、ごく自然に現れてくる。
意志には自由があるのか、それとも意志には必然しかないのか・・・・
人間の思考と行為は”自由”であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られているのか
という、永遠の問い。
こんなことを考えていると、わけがわからなくなってしまうようで
ある人にこの話しをしたときに
「疲れてるんだね…」
と、同情されてしまったりした😓
真面目に考えてはいるんだけど
それに飲み込まれているのではなくて
自分の日常の中で色んな感情をもって学び続けている身としては
この永遠の謎があるからこそ
「パンドラの箱の希望」
…自分の知らない”何か”に気が付くことができるのではないか…と思えるし
それは日常の中でこそ気が付くから重要で大切なのだと思えるからかもしれない
なんて考えたりもするのです。
うまく言えないんですが ?の点をたくさん持ち続けることが
なんだか楽しい変な人なのかもしれないです(^_^)
人生には色んな転機があって
意志しようとしなかろうと「必然的に」やってくる
その時に自分がした選択によって
自分自身に起きてくることが 予期せぬ展開を迎えることがある
何かを選ぶことも選ばないことも自由でそれも選択だとすると…
またあの問題がやってくるのです(;^ω^)
だとしたら、自分でいろいろ考えすぎないで、
起きた出来事を 良し悪しで判断することをなるべくしないで
ただ「起こった出来事」としてその時その時で生きていくだけでいいのかもしれないなぁと
思ったりもします。
そんな大きな出来事でもなく
例えば、お茶を買うか水を買うかと迷った時に
お水の方が5円安いからお水を選ぶ
なんてことも そういうことになるのかも
善悪(良し悪し) 好き嫌い 同感反感 潜在意識・顕在意識
年齢的にも少しだけ客観的にみられる…かなというこの頃に
判断を保留するという『自由意志の選択』をしたいなぁと思い
とり合えず
愛と感謝なのだな
と、非物質的な結論をこの物質的な世界にも生かしていこうと思うのでした。
今日は少しだけ真面目なお話